事実に触れる人の数だけ、“現実”がある。同じ出来事、同じ人物、同じ会話に関しても、それを見聞きする人が異なれば、その人が認識する現実は異なるものだ。2月23日(金)に公開となるフランス映画『落下の解剖学』は、それを改めて思い知らせてくれる極上の雪国ミステリーであり、2023年のカンヌ国際映画祭で最高賞であるパルム・ドールを受賞したのにも頷ける1作だ。
映画『落下の解剖学』レビュー
【動画】『落下の解剖学』予告編
『落下の解剖学』あらすじ
人里離れた雪山の山荘で、男が転落死した。はじめは事故と思われたが、次第にベストセラー作家である妻 サンドラ(サンドラ・フラー)に殺人容疑が向けられる。現場に居合わせたのは、視覚障がいのある11歳の息子だけ。事件の真相を追っていく中で、夫婦の秘密や嘘が暴露され、登場人物の数だけ〈真実〉が現れるが ――。
『落下の解剖学』の魅力
リアリティを追求した脚本
今作は2023年のカンヌ国際映画祭で最高賞であるパルム・ドールを受賞。さらに今年のゴールデン・グローブ賞で脚本賞と外国語映画賞を受賞した今作。アカデミー賞(現地時間3月10日に授賞式)でも6部門(作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、編集賞、国際長編映画賞)にノミネートされており、今年の賞レースの大本命とされる映画のひとつだ。
そんな成績のとおり、大きな魅力のひとつといえるのが、緻密な脚本。ミステリー映画である今作の脚本について、ネタバレなしに説明するのは難しい。とはいえ、自信をもって言えるのは、“とことんリアル”であるということだ。法廷での理論・感情のせめぎ合い。子どもを持つが互いに問題を抱えた夫婦のぎこちない関係。人々がある出来事をさまざまな視点から見たら、どのような反応が起きるか。たとえば彼女を守ろうとしたら?たとえば彼女を殺人犯に仕立て上げようとしたら?
法廷を中心に淡々と進んでいくこのドラマに、過度な感情表現はないし、要らない。そして、過度な感情表現がないことこそが、感情の深みを伴った名演を生んでいると思える。
サンドラ・フラーの名演
そんな“名演”を見せたのが、サンドラ・フラー(45)だ。
前述のとおり、今作はアカデミー主演女優賞にもノミネートされている。夫の突然の死と、自分に向けられる疑いの視線を経験する主人公サンドラを演じたのが、サンドラ・フラー。
複雑な状況で“どんな気持ちになっていいかわからない”という気持ちさえもフラーは表現してみせたと思えるし、逆に観客にとって彼女が“どんな気持ちか明確にはわからない”というのもミステリー映画として終始真相の読めない雰囲気を見事に演出している。その絶妙な“読めないが共感できる”演技。それが今作を「極上のミステリー」たらしめていると言っても過言ではないだろう。
なお、フラーはもうひとつ、賞レースで注目されている映画に出演している。日本では5月24日に公開が予定されている話題作『関心領域』だ。今後に期待が高まる名優の演技を、ぜひアカデミー賞前に堪能していただきたい。
助演俳優たちの存在感
もちろん、サンドラ・フラーの演技はすばらしい。しかし、この物語をより奥深く楽しめるものとしているのは、周囲を固める登場人物たちの存在感だろう。サンドラを支える弁護士ヴァンサン。視覚障害があるにもかかわらず唯一の“目撃者”となってしまった息子ダニエル。さらに、何がなんでも殺人の動機にこじつけたそうな検事。そして、物語を常に支えるのは犬のスヌープ(※)。全員が全員、確実な存在感で印象を与えている。
※実際、スヌープを演じたボーダーコリーのメッシは、俳優犬に贈られるパルム・ドッグを受賞している。
完全なる“真実”は、誰も知り得ない
人間誰しも、何か出来事に対して完全なる真実を知ることができない。昨年の日本映画『怪物』もそういった側面を持っていたように、ある事実が存在すれば、その事実に触れる人の数だけ“現実”がある。どれほど仮説・推論を並べようと、それが“真実”たりえるかは誰も知らないということが往々にしてある。
今作にはさまざまな“主張”、“推測”、“仮説”、“記憶”が登場するが、それが“真実”かどうかは誰にもわからない。そして、出来事から時間が経つほどに、記憶も薄れ、状況証拠も減っていく。そのような状態でどうにか“正しく見えそうな結論”にたどり着こうとあがく人間たち。次々に“暴論”や“感情論”が飛び出す様子も、どこか滑稽にすら見えてくる。
そんな2時間22分の“真相探り”を超えた先に何が見えるのか、ぜひご自身の目で確かめていただきたい。
レビューまとめ
『落下の解剖学』は、あるひとつの出来事に対して緻密な脚本によって人々の対話を紡ぎ、感情を抑えながらリアルな感情をにじませる法廷ミステリーの名作。そしてその“感情”を表現したアカデミー主演女優賞ノミネートのサンドラ・フラーをはじめ、存在感あふれる登場人物たちが物語に深みを与えた。さまざまに言論をぶつけ合いながらも“真実”がつかめない人々。彼らそれぞれの立場からの決死のあがきを観察しながら、遠い“真実”を前にどれほど人間が無力でその努力が無意味かを思い知らされる、そんな重厚な1作だった。
『落下の解剖学』は2月23日(金・祝)から、TOHOシネマズ シャンテほか全国順次公開。
フリーライター(tvgroove編集者兼ライター)。2019年に早稲田大学法学部を卒業。都庁職員として国際業務等を経験後、ライター業に転身。各種SNS(Instagram・X)においても映画に関する発信を行いながら、YouTubeチャンネル「見て聞く映画マガジンアルテミシネマ」にて映画情報・考察・レビュー動画などを配信したり、映画関連イベントの企画・運営も行っている。